今から六十数年前の話…遠い昔の出来事のような、そうではないような…。1台のオンボロリヤカーと一匹の犬。幼子をリンゴ箱に入れ雨風を凌げる場所を探し、早朝より幣舞橋から駅前(現在の北大通り)で生きるために商いを始めた一団がいたことを知っている人はもう殆どいないだろう…。
人々は、よほどの時化で漁師が海へ出ない日の他は『雨にも負けず・風にも負けず』黙々とリヤカーを曳いて北大通りへ集まり、仕事が終わればそれぞれ散って行くのであった。
そしてこの人々こそ釧路の家庭の台所を賄う『和商』の草分け達であり、和商市場の今日をあらしめた創業の先覚者だったのである。
店舗を張って商いをするだけの資力がないから『雨降り風間』の露店商いでもやむを得ず、その代わりに身を粉にして働こうとした。だが、その決意と努力は【道路不法占拠】というお布令でさえぎられ、警察の取り締まりの壁に突きあたったり、【食品衛生法】という法律を盾に取った保健所の厳重注意や中止勧告を受けなければならなかった。しかし、彼らは何としてもこの仕事で生きるよりなかった。 彼らの顧客である【ガンガン部隊】への便宜のため、駅に近い場所が望ましいことは彼ら自身よく知っていて、無闇矢鱈に売り場を変えることの不利を百も承知であるため馬車馬のように働いても、彼らは不幸だとは思いませんでした。だが、彼らには人一倍の努力や何かでは埋め合わせのつかない気苦労があった。それは子供たちの教育であり、家族水入らずの家庭生活であった。
夜中から朝にかけて働き、日中は休養。それは普通の人とは生活サイクルが全く逆であった。親たちの願いに育てられた子供はすくすくと育ち、よく学びよく遊ぶようになってくれた。しかし、その勉強ぶりも腕白ぶりも殆ど見てやることは出来なかった。授業参観日はもちろん、楽しみの運動会に力一杯の声援をしてやりたくとも、その時間すら持てないものがたくさんいた。
昭和二十七年・二十八年頃に和商の人々の【乱世の露商】も、そろそろ見切り時が来ていた。たとえ一坪・半坪でも誰からも追い立てを食わない安定した売り場、雨風を凌げる屋根つきの店をと言う、彼らの切実な願いはやがてその目標を具体的なものにしてきた。
昭和二十九年十二月、九名が組合創設発起人となり組合員六十名で『和して商う』をモットーに発足したのが『釧路駅前和商協同組合』(後に釧路和商協同組合に改称)です。
創業者たちは昭和五十三年までは決して組合員を増やすことはしなかった。その結束は共に培った苦しみを分かち合うが如く、また手に入れた財産を守り増やすことに精を出して更に働き続けて来た。協同組合結成から六年。六十人の組合員の悲願がかなって新店舗のコケラが落とされたのは昭和三十五年七月。風雪の時、生成の時を過ごして形成の時を迎えた。
リヤカー部隊の集まりとしか思われなかったその集団は次第に力をつけはじめ、『踏まれても踏まれても』その雑草の力をもって次第に型を整えはじめた。また、飾り気のない市場の魅力は店舗落成とあいまって、これも市民の台所という気安さとなって市民の中に根を広げて行った。
昭和五十三年新店舗建設時には外来大型店との共同店舗建設の話や、地上三階以上にマンション建設の話など色々あったが、創設者達は苦労して手に入れた自分達の財産を頑なに守り抜き、駅前の一等地であるこの場所に現在の店舗を建設するに至った。
当時駅西地区には朝市を始め五つの市場群が存在し、どの市場も市民の台所を目指し凌ぎを削っていた。和商市場が今あるのは『市民に育てられていたこと』、そして先駆者たちの教訓である『一つの事を納得いくまで議論を重ね一つの目標に向かって全員で進むこと』、そして何より『和して商う』の置き土産であり、今我々が将来に向かって大事にして進むべき、道しるべでもある。
和商の文化は一貫した対面販売であり、人と人との触れ合いであり、素材を大切にした食文化であることを誇りに、これからも『市民の台所』として期待に応えられるよう努力を重ね、たとえ泥臭いと言われても非近代的と言われても『和商は差別化された和商』として生きて行きたい。
自分達が食べることから始まった商い…幾多の波を乗り越え、個性の強い集団ではあるが、議論の末に出た結論には従うという団結力は今尚受け継がれている。これからも時代の変化に何とか食らいついて、『和して商う』姿の和商市場であり続けたい。そして地域に密着し、厳しいながらも皆が楽しく仕事に従事できるよう努力して行きたい。
最後に…リンゴ箱で育った者も今や六十半ばを過ぎ世代交代の時期を迎えました。